それこそムードオルガンでもあれば。

14時過ぎに起床(というより覚醒)。そのまま、ベッドの横のカーテンを開けて、自然光で読みかけの小説を読む。
17時、日も翳り、文字も読みづらい明るさになってきたところでようやく、文字通り起床。部屋の灯りをつけて続きを読む。久々に家で小説を読んだ!いつもは電車の中か図書館か何かしら外でしか読まないもんで。でも読みはじめて虜になっちまうと家でも読んでしまうわけだ。と、いうことで、先日も書いたようにフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』です。
本編も非常に面白かったが、あとがきに興味深い一説があるので勝手に引用させていただきます。

―前略―サイバーパンクSFの一部では、機械と人間の融合ないし境界侵犯が一種の強迫観念的なモチーフとして現れる。だが、ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている。彼が問題としていたのは、人間と機械の、その双方における、「人間」性および「アンドロイド」性の対立構図である。―後略―

まぁ、この文章自体もあとがきを書いた訳者が、『銀星倶楽部』12 フィリップ・K・ディック特集号に掲載された後藤将之さんの「フィリップ・K・ディックの社会思想」から引用したものだそうだが。
SF、殊にアンドロイドだのロボットだのを登場させて何かを言いたい人ってのは確かに、この、「機械と人間の融合ないし境界侵犯」ってとこに向かっちゃう気はするよね。うん。いいとこ突かれちゃった感じ。それも何年も前の人に。

ふと思ったのだけど、小説って何のために書いてて何のために読んでるんだろうね。
それを言ったら他の文化―例えば音楽―もそうなるのかも知れないけど。って、そうやって自分の分野に引き込めば色々なことが理解―もしくはそれに近いところまで―できる。
で、前にも書いたように、僕はすぐ影響を受ける。上の文の文中に今までは“()”で書いてたようなとこを“―”ではさんで書くってのは、この訳者の方の影響ですかね。
それにしても誤字の多い本だったなぁ。いったい何版だって話だよ。

いざ書き始めると、本当に書きたかったはずのことはどこかへ行ってしまうのでした。