てんやわんや師匠

なんだか大忙し風な毎日です。


ここもまた1週間も放置してしまいました。


昨日はライブラリのライブでした。西荻ターニングでした。


一昨日は伯母さんのお通夜でした。静岡県伊東市でした。


一昨昨日はmidorigoのライブでした。西荻ターニングでした。


その前は、火曜日一日休み。月曜は学校行って。


別に大して大忙しでは無いですね。こうしてみると。大忙しな方、不快な思いをされたら申し訳ありません。すべて私の不徳のいたすところであります。

まぁ、大忙しな人はこんなとこ見ないだろうけどねー。


別に、こんなとこに書くことでもあなたが(今これを読んでいる貴方が)読むことでもないんですが、どっかにまとめたいのでそれとなく書きますが。


伯母さんが亡くなったんですよ。
幸運なことに僕は今まで、まともにお葬式とかお通夜とか行ったことなかったんですよ。
今までは、夏休みとか正月に伊豆の祖父母の家に行くと当たり前のように伯母さんはいたわけですよ。全然実感がありません。
結婚式もそうだけど、ああいう式典てのはそこの集まった人たちの感情を上手いこと盛り上げるようにできてるんだと思いました。
考えたら、伯母さんのことってあんまり知りませんでした。小さい頃から夏休み行く度に遊んでもらってたのに。
ご焼香ってのは、その動作に不慣れなものだから、どう動くかばかり考えてしまって、実際あまり何も考えられませんでした。まぁ、慣れたくはないものですが。
お坊さんが読経して、木魚をリズムよく叩いて。木魚のベロシティは一定ではないことを知りました。強弱つけるんですよね。
そう、宗教行事でもあるわけです。日蓮宗のお坊さんが来てました。みんなで声をそろえて、合掌して、「何無妙法蓮華教」とかって言いました。そこにいる人たちの中に、きっと熱心な信者の方はほとんどいないと思うけど、それは紛れも無く宗教的でした。
みんな、別にそんなに仏教とか信心深いんじゃなくて。それは亡くなった人に対する気持ちが。

木魚、読経、会葬者の方々の涙をすする声、なんだかすごく特殊な音空間でした。エレクトロニカ的だと思いました。


例えば、「亡くなった人も喜ぶだろう」とか言うけど、それって全部生きてる側の気休めなわけで。そもそも「亡くなる」っていう表現自体にそういうとこはあるんでしょうけど。
変な話ですが、「死ぬ」っていう行為、んー「行為」って言っていいのかわかんないですけど。それって、もしかしたら人間が唯一他人のためにすることなんじゃないかと思いました。
例えば、子孫を残すのだって「自分の」遺伝子が、種が、みたいな、やっぱり全部利己的にできてると思うんだけど。
自殺は全然違うと思うけど、そうじゃなくて、死んでしまうってことは忘れさせないためと言うか。「忘れられない」ためでは無いと思うんです。何故なら、「忘れられ」ようがられまいが、もう本人はこの世にいないのだから。
生きている、残された、人たちが忘れないようにする。そうして、その人との思い出を懐かしんだり、悲しんだりする。そういうのって必要だと思うし、そのために死ぬ、というか。やっぱりおかしな話ですね。やめときます。上手く書けません。
要は、死んでしまったら何もできないってことです。行動のリアクションができないわけです。だから、死ぬっていう行動のリアクションは生きてる周りの人にしかできない、本人以外にしかできないわけで、そういう意味で、本当に自分のためじゃない行動、というか。そんなことを考えてしまいました。おかしいですかね。


線香を絶やさないようにする。
ってことで、葬儀場に泊まりました。伯父さんと、伯母さんのお母さんとお姉さんと、あと自分の母と。
最近は、蚊取り線香みたいな渦を巻いた形のお線香があって、それは12時間もつから、たとえ寝てしまっても線香を絶やすことにはならないから大丈夫なんだそうです。
なんか、それってもう意味が無いと思いました。そんなに形だけになるんならやんなきゃ良いのに。でも、それでもやる意味ってのもあると思いました。そんなの、実は関係無いんですよね。


あー、なんのための文章なんでしょう。



何はともあれ、本当に残念だし、悲しいし、感謝してるし。


まったくもって自分のための発言だってことを自分で暴いておいてなんですが、
ご冥福をお祈りします。