スケートボード・街・スケートボーダー・グッバイ

時間という概念は便利だが、決して縛られてはならない。
誰かが都合のいいように区切っただけなのだから。なぜ一秒は一秒なのか。
君の一秒は一秒なのか?その時間を、(あえてここでは“時間”と言う概念を使用しよう。何故って、私に知らず知らずのうちに刷り込まれていて、抜け出しがたいものだから)一秒として生きるのか?
今日はいつ終わるのか?一日の区切りは、時刻だけじゃなく、生活にもよるだろうけれど。その、時間的制限を、終わりを、締め切りを、決めてしまうというのは実はとても危険なことじゃなかろうか。無理が生じる。現代社会、文化、無理を承知でやっているのだけれども。無理や無茶がまかり通る世の中ですか?でも、その前に、「世の中」ってのは集合体だろ?所詮。そして、その前に、集合体であろうがなかろうが、それを捉える君によるものだろ?「世の中」とか「世界」とか「小宇宙(コスモ)」とかってのは君の中にあるもんだろ?そして小宇宙を爆発させて…!聖闘士の誇りをもって。青銅聖闘士だからってなめるな!
…あれ?話を戻します。その、他人が決めた、つまり君にとっての世界ではない時間の制約に追われるってのはとんだ馬鹿げた話だと思いませんか?勿論、現代人、刷り込まれてますが。時間も。そういう意味では、人間を超越しようとしてたディオも人間の作った時間の制約の中で動いてましたもんね。元は人間とはいえ。って、ことは、だ。ディオの(※私はまだ第三部までしか読んでません)敗因は彼の非常に人間的な勝ち誇り方や焦りやリアクションにあると思うのだけれど。刷り込みだ。習慣だ。パラダイムがシフトしてないっちゅうことか。よくわからんが。
ってことで、毎度読んでくれてる方はお分かりの通り、僕は難しそうな言葉使いたいだけの中学生みたいな日記を書いてるわけですわ。そう。14の時からほとんど進歩してないんじゃないかと思うよ。思考のベースは。その周辺にある知識とか感情とか経験とかは多少増えてるっつってもさ。
と、言うことで、何が言いたいかというと、学生としての製作の締め切りに対する自分への言い訳を考えていただけです。(←なんて周りくどい文章!)