なんだかなー

今日のタイトルを言うだけであなたも阿藤快の真似ができる!


いんだか

いんだか分からないのです。


この日記は行間をいつもより空けたいときには二回改行しなければならない。


どこからが芸術ですか?どこまでがロックですか?


※残念ながらおたくのお子さんはロックに魅入られてしまいました。(BGMはドラクエの呪いの音で)


あの、ですね。身体性と音楽、みたいな音楽、と身体性、みたいなことを最近ずっと考えてるんですよたまに。


で、今日いきついたのは、感情とか気持ちとかってものは身体が不可欠なものかってところ。この問いの答えが真なら「最終的には音楽に身体性は不可欠である」という文章に対して(自分の他の考えを無理矢理に抑えこんで)偽である、と言えることにしたんですよ。今日のところは。
噛み砕いて言うと、感情(分かりやすくするためにそれに類する一切のものを今回はこの一語が含みもつものとします)ってものを出現させ、認識させ、表出させるものはつまり身体なのか、というところです。今のところ、その多くは他の機器によって代用不可だ、と思われてるものです。しかし、それが抽象的な言い方ですが、「魂」だとか「霊」的なものがそれらの根源だとしたら、“インターフェイスとしての身体”以外は可欠*1なわけです。つまりロボット的な、科学技術の進歩によって実現可能であろう電気的な信号伝達を基本とする人間の身体の代用品があれば“身体そのもの”はなくても可能なのではないか、と。何が可能かって言うと、身体性の無い(又は極力少ない)形で成立する「音楽」においては、テクノロジーがその今まで身体性によって埋められていた部分を担当するわけです。言わば自動演奏。そう、勘の良い読者のみなさんならもうお分かりですね?(笑)つまり、テクノロジーで演奏を担当する場合、メカニカルな部分、テクニカルな部分での身体性は今は無理でも将来的には、ほとんど代用できるようになっちゃうと思うんですよ。(本当はグルーヴの問題とか揺れの問題とか色々あるんだけど、しかしそれらも細かくプログラミングしてけば再現可能だ、と。まぁ、再現ってことは、その前提にある高い身体性を伴った演奏が無いとだめだから…って考えは今は置いておきます。)
そうすると、何が足りないって言われると、「エモーション」って奴だと思うんです。感情、思想、気分、リアクション、動揺、緊張、アドレナリン惜しまない、諸々込み込みで。で、それに先に述べたように身体性が「可欠」であるなら身体的な、肉体的な、物質的な部分はテクノロジーの産物が肩代わりしてくれるわけで、さらに感情の部分にはもともと身体性ってのが関わらないなら、ほら、「音楽に身体性は不可欠である」に対して、とりあえずは偽である、といえるじゃないですか。



まぁ、っつっても色々思うところを(ある程度は書いちゃったけども)あえて無視して、今日のところはそっち側の立場として無理矢理に論を展開してるわけだけども。しかも、その前にある「感情に身体(性)が不可欠」っていう仮定が立証されないと意味ないわけで。


っつうか、可欠じゃこまるんだよ。音楽に身体が。僕としては。不可欠じゃなきゃ困るんだよ。頼むよ。


ブルボンが「ドリームシアタービスケット」ってのを出してるんだよ。知ってた?


半蔵門線」って響きはなんだかお洒落な予感。Hanzomonsen。


儚さも良いが、永遠なものってのも見てみたい。そんなもんがあれば、の話。


ギターは弦を変えるべきだね。やっぱり。


■予告■今年5月24日(火)2年ぶりに愛用のベース(ミュージックマンスティングレイ5)の弦を変えます。でも、ロトの俺が欲しい弦どこでも打ってないんだよなぁ。フラットワウンドで、5弦で、5弦が130〜てセット。しょうがないので今度は今年頭に買ったダダリオになります。きっと音も変わるはず。ってか弦変えたら弾けなかったりして。


木曜にはロマサガ


インスト音楽を聴きながら地下鉄に揺られるのも一興。


クロ子とグレ子、今見てもやっぱりひどくていいやね〜


暑いんだか寒いんだか。


っていう散文。

*1:こんな言葉は日本語として正しくはないと思います。が「不可欠」という言葉を何度も言ってたらそれに対する言い方として「可決」即ち、欠けることができる。って言い方が出ちゃってなんとなく気に入っちゃったんです。「可欠」の「可」を上下に二つ重ねると「歌」になるんです!